映像とは夢の歴史ともいえるのでは

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私はテレビをほとんど見ない。映画は好きだが、ヒロインと悪党、弾丸の交差するアクションがいつもの通りに繰り返されるハリウッド・プロパガンダ映画には強い不快感を持つ。だから当然にドイツ、ヨーロッパ諸国の筋書きからして不意を撃たれる映画をみている。少し心が疲れた時はジプリアニメを繰り返して見ている。かってアニメは苦手であったが「カリオストロの城」を見てから認識を変えた。監督宮崎駿を透かしてポール・グリモーの名作「王と鳥」が確かに感じられた。
「天空の城ラピュタ」は30年以前の映画だが、「王と鳥」の垂直する中空描写に習った飛行石という着想、夢で見るような飛翔体/空中戦艦、詳細な絵画的描写の挿入、若かった宮崎駿の想像力と思想が物語空間を充実させていた。
ジプリ作品に「耳をすませば」がある。この物語の舞台設定が、私の住む藤沢/善行にとても近似している。 相模大地が海に滑り降り平坦になる境目の地形。25度の近い斜度の坂道を一気に下れば江ノ島と新宿を結ぶ小田急線に出会う。坂上の団地に住むヒロインの月島雫と同様に私も高台の団地に住む。全ての建物を南面に向けゆったりとした空間に建つ集合住宅は日当りだけは極上である。黄道の低い冬の太陽の朝日は、7時を過ぎればキッチンを最初に窓から覗き込むように部屋の中に入ってくる。強い斜光ゆえモノを刺し貫くような光だ。
見ることの当たり前、そして予見が反復することからの安堵/日常を大切に生きる人の眼差しは、極まる太陽の光の変幻はほぼ無縁にやり過ごす。詩人でもなければ光を、多様な文意の言葉に捜す事は無い。ところが写真撮影の対象となる光景は、フィルムに偏り光の所在の変化に、人の眼差しとは異なる色彩を描写する。しかしデジタルは人の記憶色に似せて律儀に補正が施され、視覚を脅すことはない。
デジタルであれフイルムであれ、現在の映画/映像媒体にCGによる光景表現も当たり前になっている。
映像イメージの構成方法は多重しているのだが、普遍してアプリオリに当たり前とされ、行きずりの眺めともなっている。映画「三丁目の夕日」の世界を生き行きた私に、そこに描かれたCGの景観に違和感の無い“現在”でもあった。懐かしい記憶として確かに私の背後に在るべき、記憶という仮想軌道/来歴が、“私”を超えて目前する事態は、人が生きるカオスの時空間/現在は、記憶が秩序づけている過去である事を知らせる、人は現在に立ちながら過去を生き行く、そして“死”という留まりだけが確信できる現在ではと私は想い続けている。
多重する視覚媒体の一つとして夢に見る映像空間をも真摯に生きる人の“二重する生”として相対することを私は厭わない。なによりも私自身の現在の写真表現が、夜ごとの夢の映像化であるのだから。
臨死の体験でした光景、穏やかに穏やかに、浅い桃色に白濁した地平に誘われた経験を持つ私に、現世は余りに生々しい。

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