インスタのゆるい世界観へ

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私はビジュアリスと名乗りますが、実はウォカーフォトグラファーを自認しています。
幾分か“乗りの写真”と敬遠していたインスタグラムに参加しました。ロバート・フランクを追う純写真表現/モノクローム写真をメインに、グルーブするインスタに傾く写真をアップしています。作品の99%はフィルム写真です。きっかけはゼミ学生との疎通に便利?でしたが、いま自分がインスタ写真に“新しい時代写真”を学んでいます。ぜひkonno_noriyoshiで検索して下さい。
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スマホの歩数計が2万歩を示す直前まで、4時間程の歩行の中でフィルム撮影を進める。この行為から捜し求める被写体は“零度の光景”である。この光景との出会いは何時も容易ではない。目論みやら意図を尖らせたところで容易に出会う事は無い。
人が子供であった頃、恐らく世界は“私”と一体であり、居合わせた空間そのものが“私”であったのだろう。幼い知覚を超えて余る感受性だけに満たされた眼差しは、見る事の不思議や不気味に鋭敏に働く故、知覚や意味の狭間を押し広げる裸形の世界の“ざわめき”を見逃す事は無かった。
光景/事象は大人である私の前では、全ての側面において意味を現し知覚を喚起する事柄の関係性を示して止まない。そんな事情から私の撮影は、少年へ子供への眼差しへの回帰に努めることから始まる。
坂道にさしかかったその時、真冬の朝の低い斜光に、空色にペイントされたトタン張りのアパートが手前の黒々とした造成地の盛り土を舞台にてらい無く輝いていた。その在り様と関係性に見る光景は、日常の視線が触れ得ぬ世界の“はずかしげ”なひと時の局面なのだろう。私の視野/フィルムカメラの矩形は無意味を印象する空色の家において、“世界の恥じらい”を撮り収めたと思惟したい。
写された写真には、写真の素性として在る永遠する現在に世界の恥じらいが取り込まれてゆく。他者には全く理解されない、煌めく無意味性に捕まった、醒めた私の撮影描写がほどほどに進行すれば、その写真は世界を裏返して見る行為ともなる。それがそしてこの撮影行為が、私の世界への因果の見定めでもあるのだが、追い続けた「さようならの風景」から神の方位を捜し続けたロバート・フランクは遥かな地平に立っている

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